慈悲庵のあゆみ
社会福祉法人慈悲庵
設立趣意書
ひとりの老人との出会い
終戦後間もない昭和二十四年、戦争の爪痕が強く残る浜松で、初代理事長 影山学と一人の老人が出会うところから慈悲庵の歴史は始まりました。
当時建設業を営んでいた影山は、上棟式の帰り道、山の中腹にある壕(戦争中敵から身を守るために掘った溝や穴)の入り口でその老人と出会います。その老人から「浜松市は戦災で人口は三分の一に減り、壕や橋の下などで生活を営む者が数知れない。」と聞いた影山は、「たとえ三坪のバラックでも何とかいたしましょう。」と約束をし、その日は帰途につきました。
社会のために恩返しを
帰宅して妻にこの出来事を話したところ、妻もこれからは社会のために恩返しをしたいという思いを告げ、宿所提供を行うことに賛成しました。こうして影山は建設業を辞め、夫婦共に未知の世界であった社会福祉事業に足を踏み入れることになったのです。鴨江町に土地を確保し、私費で『庵』と称する小さな建物を二棟建て、約束通り、入居第1号に壕の入り口で出会った老人を迎えました。
昭和25年5月5日、これが慈悲庵の始まり、宿所提供施設浜松希望寮の礎です。
社会福祉法人慈悲庵の誕生
その後、影山は引き続き私費で九棟の建物を増設し、戦災者や生活困窮者などのために宿所提供を続けました。こうした運営を続けていくうちに、国から社会福祉事業に該当すると認められ、社会福祉法人として認可されることになります。
最初の『庵』を建設し、宿所提供を始めてから約4年の歳月が経った昭和29年2月1日、「社会福祉法人慈悲庵」は誕生しました。
社会福祉と慈悲庵
社会福祉法人となる前、現在の浜松希望寮にあたる宿所提供施設を設立したのが当法人の始まりです。浜松で宿所提供を始めた第1号であり、この道での開拓者となれたことを嬉しく思います。
社会福祉法人として認可された数年後には、老人福祉法が制定施行されました。そこで、当時社会問題化していた老人問題に対応すべく、お年寄りが安心した老後を過ごせることを願い、昭和45年4月、都田に老人福祉に特化した養護老人ホーム九重荘を設立し、また県下初となる、一人暮らしのお年寄りを対象とした食事提供サービスも開始しました。その9年後の昭和54年4月には、九重荘の隣に特別養護老人ホーム第二九重荘を併設、8年後の昭和62年9月には特別養護老人ホーム白萩荘を設立しました。
介護保険法の制定と居宅サービスの充実
平成9年になると、介護を社会全体で支える仕組みとして、介護保険法が制定されます。介護保険法が導入されたことで、利用者が自由に介護サービスを選べるようになり、サービス提供者と契約を結んで介護サービスを受けるという形に変化していきました。
当法人は介護保険制度が導入される以前より、施設運営と平行して居宅介護事業に力を入れていたため、大きな基盤となりました。今までの経験を活かしつつ、さらにお年寄りに求められるサービスを充実させるため、この頃より第二九重荘、白萩荘へ、居宅介護支援事業所や居宅介護サービス事業所を順次開設していきました。
時代に対応した新たな試み
平成13年になると、高齢者の居住の安定確保を図るための法律「高齢者居住法」が公布されました。これに基づき、平成16年に高齢者優良賃貸住宅旭白萩、平成18年に高齢者優良賃貸住宅半田山九重の管理業務を開始しました。旭白萩、半田山九重それぞれにも居宅介護支援事業所、居宅介護サービス事業所を併設し、お年寄りの生活の充実を図っています。平成19年4月には、特別養護老人ホーム湖西白萩を湖西市に新設し、ユニットケアを導入した施設運営と居宅介護支援、サービス事業を展開中です。平成25年4月には時代のニーズに応えるため都田に介護老人福祉施設第二九重荘(ユニット型)を新設し、養護老人ホーム九重荘も3階へ移動させました。また平成30年4月、新規事業として福祉用具の貸与・販売を行うホームケアいおりの事業も開始しました。
このように、慈悲庵と高齢者福祉は長い歴史と変化を常に共にしてきました。
初代理事長が伝えたいこと
介護や福祉といった言葉が定着し法律も整った現在、私たちが展開している事業は「社会福祉事業」と呼ばれ、広く認識されるようになりました。しかし、本来この根底にあるものは『助け合い』であり、何かを期待して行うべきものではないということを忘れてはなりません。そのことを別の言葉では『愛の心』や『善意』と表しています。
そんな思いを貫いた初代理事長は、次のような言葉を残しています。
「私の仕事を“福祉事業”とか“社会奉仕”とか言うかもしれないが、私自身はそうした言葉で表現されるのを好まない。微力で裸一貫の私だけでこのような仕事に取り組んでも満足な成果をあげることは到底できず、多くの人たちや団体の善意が、このような組織に発展させたからである。私が誇れるものがもしあるとすれば、“人にも施設にも愛情だけは忘れず、持ち続けてきた”ことであろう。」
影山 学